儒学者としての赤水

清槎唱和(しんさしようわ

 長崎に居留している清国人と漢詩の交換。この思いも寄らない夢が適ったのは、実に青天の霹靂だった。隣村磯原野口家の姫宮丸が安南に漂着。清国船に助けられ長崎へ送還されたという。この漂流人4名の引取りに、水戸藩役人ら総勢21名の一員として赤水も、磯原村庄屋代理として随行を命ぜられたのである。長崎到着の赤水は、本物の、しかも憧れの清国人と筆談し実力を試してみたかった。しかし水戸藩では、「(みだりに外人と接するを許さず」という掟があった。3日、4日と我慢していたけれど、千載一遇のこのチャンスを無為に過ごすべきではないと決意、赤水から見れば悪法であるその禁を密かに破り、通訳の熊有隣へ、手紙に漢詩を添えて手渡し返事を待った。

 

『清槎唱和集』 (長久保和良 蔵 18.5 ✕ 26.5cm)

 

赤水の純粋な情熱は天に通じ、半ば諦めて帰り仕度を始める頃、返事が届いた。しかも、赤水の詩の脚韻を踏んで、津隣人(しんりんじん、津隣人と。

 20数編の唱和集は、水戸藩の学者たちをうならせたのである。

 

 

侍講侍読

 侍講とは字の示すように、藩主のお側近くに(はべり、書物などを講ずる役である。家庭教師というところか。しかし、「百姓御殿へ上がり候事は先例これ無く、始めての事に候」と郡奉行皆川教純が記している。水戸藩では赤水が初めてのことであった。博覧強記、桁外れの体験、中正な思想。天文暦学は、若き27歳の藩主治保(はるもりも関心を持っていたという。しかし、身分格式の厳しい武家社会のこと故、当然氏素姓(うじすじょうも調べて推薦した筈である。採用され61歳で再就職した赤水は、推挙者に礼状を述べ、「僕感佩鏤骨(かんばいろうこつ(いつまでもご恩は忘れず、骨にちりばめて置きます)」と記している。

 

『天経惑問 天』 (長久保赤水顕彰会 蔵 17.5 ✕ 27cm)

 

 侍講は江戸の水戸藩上屋敷(後楽園)に常住し、多忙を極めた。しかし信任は厚く、殿様ばかりでなくその弟や若殿、また御家老や番頭(ばんがしら衆にまで教えた。また、水戸藩の次世代を背負って立つ少年2、3名の指導も命ぜられている。メリットは、有力者を教え子に持てたこと。また郷里への恩返し「再改め」や、大能牧場の廃止など。人脈を得たこと。貴重な資料が得易かったことなどなどであろう。

 

 

教育

 赤水は多読、雑学、実学派だった。最初の師鈴木玄淳は医で老荘の想いが強かった。赤水も当然感化された。赤水の号は赤浜と水戸の頭を採ったともあるが、『荘子』の文章の中から号の赤水も名の玄珠(はるたか、関防印の象罔得之(しようもうこれをうるもみな採っている。しかし、中心に据えていたのはやはり儒学だった。赤水家訓の中のことばは主に論語の中からのものである。明治23年に発布された教育勅語は、水戸学者元田永孚(ながざねの起草によるが、赤水家訓を参考にしたそうである。「夫れ孝は徳の本なり……」で始まるが、教育勅語の「皇運を扶翼すべし」はない。

 

『書經 巻丿ニ 夏書(禹貢)』 (長久保赤水顕彰会 蔵 19.5 ✕ 28cm)

 

 その他、仁義礼智信など人生訓もあり、人のあるべき姿を教えている。また、息子四郎次への手紙では、『源氏物語抄』を送る。六十帖の題名を覚えただけでもよほど風雅になる。読まぬ人は人の数には入らぬと思えよとも言っている(『長久保赤水書簡集』横山 功氏 編著)。赤水はまた、藤田幽谷に大きな期待を掛け、大切に教育したことは特筆されてよいと思う。天の声に耳を傾けつゝ、生涯学習の背中を見せ生きた人物である。