地理学者としての赤水

改正日本輿地路程(よちろてい全図

 有名な伊能忠敬(1745~1818)が、私は全国を歩き測量してみて、地図作りは甚だ難しいことを知った。「水戸の赤水は(いながらにしてよく図を製すること甚だ感ずるに堪えたり(小宮山風軒「懐宝日札」)」と人に語ったという。(『伊能忠敬研究』前田幸子氏) もちろん正確さは比較にならない。しかし活用された点では雲泥の差があろう。伊能図は国防上発禁図であり、赤水図は明治までの動乱期、充分道案内を果したのである。

 

04改正日本輿地路程全図・寛政3年(長久保赤水顕彰会 蔵 84.6×128.8cm)

 

 学問は皆の役に立つべきもの。余技として地図作りを思い立つ。自分も旅好きだった。 身近に学友柴田平蔵がいて各藩の国絵図や流宣図などは閲覧できた。その他渋川春海(1639~1715)の測定した緯度を活用した(『地図史通論』長久保光明著)。

 『改正日本輿地路程全図』の柴野栗山の序文には、「最初は日本地図を障子に貼り、旅人を招き入れて情報を得、二十余年を積み」と記している。原図は子孫の前新屋(長久保甫氏)に現存する。改正に改正を加え、安永9年大坂より出版したのであった。

 

 

唐土歴代州郡沿革図(とうどれきだいしゅうぐんえんかくず

 世界地図、つまり『改正地球万国全図』は江戸小石川にて「(ようやく出来候間(つかわし申候」とあり、「此品(このしな禁書ニ御座候。広くは成りかね候。内々ニ((ひそかに売候事に御座候間、左様思召可被下(さようおぼしめしくださるべく候」と常陸太田の立川左四郎宛の手紙にある。幕府も目を光らせている中で、好奇心と知識欲を抑えきれず、いやそれだけではなく、同好の士に世界の姿を知らせたかったのだ。極秘の中に進めていたのである。ところが、『大清広輿図(だいしんこうよず』(中国地図)は藩主の命令で作るのだから大安心であった。これを67歳で完成させると、次に歴史地図を所望され『唐土歴代州郡沿革図』も完成させたのである。13枚の折畳式で中国の時代ごとの国分けが一目瞭然便利である。

 


『唐土歴代州郡沿革図手書原稿』 (長久保甫氏 蔵 35.3 ✕ 38.5cm)

 

 最初は大清国道程図で、中国内の都市間の距離は勿論、日本からの8コースの海路と距離も書かれている。戦国七雄図も唐十道図もある。阿倍仲麻呂が望郷の思いを詠んだ和歌「天の原ふりさけ見れば春日なる……」は有名であるが、その詠んだ場所は明州であり、山形大名誉教授後藤利雄氏は、赤水の唐十道図の中にしか明州は無いといわれた。

 

 

大日本史地理志編纂の特命

 世の中が沈静化すると明治新政府は、江戸時代に功績があったにも拘らず、埋もれたままでいる人を拾い上げ、追贈することになった。旧水戸藩では赤水が該当し、従四位が贈られた。理由は、光圀の始めた大日本史の地理志編纂の功によるものであった。明治44年6月1日のことである。これを祝い赤水の墓では花火が打ち上げられたという。
 侍講を勤め上げ、70歳で隠居格ともなれば、普通ならば御払箱で解雇される訳だったが、藩主からは養老の料として七人扶持、宍戸藩主からも三人扶持を賜わり、藩主からは大日本史地理志の編集に従事するよう特命が下った。藩主は10年もの仕事を預け、赤水を手離したくなかったのである。

 

『改正地球国全図』 (長久保和良氏 蔵 95 ✕ 147cm)

 

 赤水は、息子たちが故郷に帰るよう手紙を出したのに対し、返事を書いている。「地理志は、我等一命を懸て君侯御直之御仰を守り(中略)に死候までも其朝迄は、地理志の筆をとりて死申事を本意と存候」(『地政学者長久保赤水伝』長久保片雲編著)
 全国から集められた厖大な資料に目を通し、それを精選検討して書き連ねていったのである。