農政学者としての赤水

芻蕘談(すうじようだんを通して

 百姓の子として生れ育ち、学問の功により52歳で水戸藩郷士(武士待遇)に取り立てられたとはいえ、61歳までは農村で暮らしていた赤水である。農民の実情に精通していない筈はない。郡奉行から農政全般について意見を求められたのであろう。57歳の10月、『芻蕘談』を著わしている。芻蕘とは草刈り、木こりのことで、下層民の自分を謙遜して言っている。その私の考えを述べたものである。冒頭は「人の身上(しんしょう乏しければ、民はその父母をも安ずる事(あたわず。仁義を失う本なれば、上より下に至るまで生産を(おさむるを第一の計とすべき事なり」で始まっている。

 

『芻蕘談』 (長久保和良氏 蔵 25.3 ✕ 17.7cm)

 

 そして古の聖王の制度に従い、倹約し、身の程を守れば、甚だ困窮することはないとしている。聖王の制度とは、年総収入を考慮して、その四分の一を貯え、吉凶の非常の備えとし、四分の三を生活費に当て暮らすことだと紹介している。結びには、なんと、賢明な主君は、昔からの格式に縛られての冗費を抑えるべく改善し、安定させよと結んでいる。

 

 

農民疾苦(のうみんしっくを通して

 当時は厳しい刑罰があった。郷土の鈴木玄淳の著書『百姓日用訓』には「直訴、投訴、徒党、連判、謀叛(むほん……重きときは入獄死罪、軽き時は牢者、島流、又は耳を(り、鼻を(ぎ」とある。訴状の内容の如何を問わずの御法度、問答無用である。赤水は侍講になり支配階級側になっても、農民たちの心に寄り添っていた。一俵は四斗二升を入れれば良いものを更に二升、やがては四升も余計に入れよと言われ、百姓たちは陰で泣いていた。更に酷いのは、苦労して船に積み、那珂川を上り、水戸城下の河岸に荷を下ろすと、そこでまた俵を開き検査をする。これを「再改め」という。

 

『農民苦』 (長久保甫氏 蔵 16.5 ✕ 24.6cm)

 

 役人の腹の虫の居所が悪いと唐箕(とうみで吹き飛ばし、量目不足で村返し。赤水は侍講一年目、遂に地位名誉、命をも捨てる覚悟で『農民疾苦』を藩主に上呈した。「不幸の民の無益の虐を照らし給わば、小臣(赤水)首を(おとすと雖も辞せざる所なり」「臨書感涙、誠恐々々、死罪々々」。お陰で再改めは廃止となった。

 

 

大能(おおの牧場の廃止

 赤水は、子育ての事、御蔵前納(再改め)の事、大豆金の事、その他色々改革を実行させてきた。その一つに「野駒(のごまの難相止候」というのがある。これは水戸藩松岡領(現高萩市)の大能牧場の一件である。水戸光圀が延宝6年(1678)大能村大谷地に、馬十三頭を放たれたのが始めという。その後更に六十二頭を放ち、大能田畑野駒山と名付け良馬が育った。ところが馬たちが田畑の作物を食い荒らすようになり、近辺の農民は困り出した。ご無理ご(もっともの時代。しかも光圀公ともあれば神様級だ。とても逆らえたものではない。年々田畑の作物は食い荒らされ被害は拡大化。

止むなく自衛の策、「願い出て三十五か村から二千八百余名が人足にんそくに出て幅高さ共に三米の土手を築いた」という。(『あしたの風とひとつになって』八巻恒男氏)

 

『自画像 (赤水画)』 (長久保智保氏 蔵 19.1 ✕ 25.2cm)

 

 平和時に軍馬は不要、時代が変われば制度も変えよ。困窮する農民を救って欲しいと建言した。先祖光圀公の開いた牧場、重臣共もうるさい。8年後、赤水の古稀を祝ってか、廃止されたのである。