長久保赤水とは

偉業と人と成り

 禍を転じて福と為した男の見本が赤水である。伊能忠敬の日本地図完成より約半世紀前、実測もせず、情報に情報を重ね修正を加えつつ、縮尺を用い、主要道路に5952もの地名等を刻み、彩色を施し、日本初の緯線と縦線を引いて大坂より出版、地図の大衆化に寄与したのは画期的な偉業であった。『改正日本輿地路程全図』1780年(安永9年春)刊がこれである。水戸藩がバックに幕府公認。庶民に愛用されたばかりか、あの幕末動乱期に無くてはならぬ指導者たちの必需品の一つだった。

 

sekisui 『自画像』 (長久保甫氏 蔵 44 ✕ 93.6cm)

 

 赤水の生れは江戸中期、享保の改革開始2年目、1717(享保2年)11月6日、水戸領は奥州道筋の赤浜村である。代々庄屋を勤めてきたが、父は次男ゆえ、同村北原の松林内に分家した。その後不幸の波は次々と襲い掛かり、弟、母、そして父とも死別。11歳の孤独。ただ拾う神ありで幸いだったのは、継母の理解と深い愛情。更に加えれば隣村に医の傍ら塾を開いて、子弟の教育に情熱を傾けていた鈴木玄淳がいてくれたこと。またそこで良友に巡り会えた事などであったろう。

 

 

赤水図の変遷

 通称「赤水図」と言われるのは、1780年に出版された『改正日本輿地路程全図』を指し、赤水64歳春のことである。これを川村寿庵、古川古松軒らの指摘を受けて更に修正を加え、1791(寛政3年)年、赤水75歳に第2版を出している。

 

『改製扶桑(日本)分里図』 (長久保甫氏 蔵 84.6 ✕ 134.8cm)
原図 ※手書きで修正の跡が見られる。

 

 この図の序文を見ると、20余年の考究を積んで成ったとある。それは1775年(安永4年)3月のことで、「改正」の前の『新刻日本輿地路程全図』の序文と同一のものである。しかし、「新刻」の前身がある。それらを並べてみると次のようになる。

改製扶桑(分里図分里図ふそう(日本)分里図 1768 52歳
新刻日本輿地路程全図 1775 59歳
改正日本輿地路程全図 1779 63歳(※完成したが彫刻が遅れ、出版は翌年の1780年春)
改正日本輿地路程全図 第2版  1791 75歳

 赤水没後も5版を重ね、他に海賊版、模倣版も出回った。そして最も注目すべきは海外へ紹介された事である。

 

 

帷幄(いあくが夢

 赤水が没後110年も経て「従四位」を贈られたのは、「大日本史」の「地理志」編纂の功が認められてのこと。あれほど重大な時期に、あれほど役立った赤水図だったのに、「赤水図」ではなかった。何故か。それは、明治新政府の御用学者たちが、すべて西洋の科学の眼で見、あれは地図ではないと判定したからであろう。

 元より赤水は、自分は旅好きで、地図作りは余技でやっていると書いている。それでは本業はと問えば「儒学者」と応えるに相違ない。

 

『大日本史地理志草稿』 (長久保智保氏 蔵 19.4 ✕ 39.7cm)

 

 但し、そこここに居る詩文の上手な、或いは上手な字を書くだけの学者先生を目指してはいなかった。つまり、若い頃から心の隅に置いた願望は「帷幄(いあくに参ずる」ことだったのである。もちろん一介の百姓の身分。しかし「東奥(とうおく紀行(つけたり北越七奇」の中でも44歳の赤水は、政治はこうあるべきだと発言している。ところが、運良く光圀の学問奨励策の土壌に転がった赤水は、芽を出し、踏みつけられ危ういこともあったが、水戸藩中枢部に入り込む事ができたのである。