吉田松陰も絶賛! 伊能忠敬が測量に携帯していた 長久保赤水の赤水図 令和元年記念『改正日本輿地路程全図』原寸大レプリカ(複製図)を千円で販売中!

吉田松陰も絶賛! 伊能忠敬が測量に携帯していた 長久保赤水の赤水図

『改正日本輿地路程全図』寛政3年版(1791年)

ここをクリックすると、寛政3年発刊『改正日本輿地路程全図』赤水図の袋(のし)が表示されます。

 

ここをクリックすると、令和元年記念『改正日本輿地路程全図』原寸大レプリカ(複製図)が表示されます。

 

令和元年記念『改正日本輿地路程全図』原寸大レプリカ(複製図)を千円で販売中!

84.6×128.8㎝の地図を、24分の1に手織りし寛政3年の袋(のし)に包んだもの

大きさは、だいたいB5サイズぐらいです。折りたたんだまま、見たいところを開いて見ることもできます。大変便利で、現代の観光マップの先駆けとも言える地図です。

有名な伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』は、江戸幕府の秘図で明治初年まで、庶民の目に触れることはありませんでした。

これまで殆ど知られていませんが、江戸時代の庶民にとっての日本地図は、この赤水図だったのです。

まさに、明治維新のエネルギーの起爆剤的役割を果たしたのがこの赤水図だったのです。

赤水は、『改正日本輿地路程全図』(日本地図)や『大清広輿図』(中国地図)、

『改正地球万国全図』(世界地図)、『唐土歴代州郡沿革地図』(中国歴史地図帳)、

『蝦夷之図』などを著し、しかも出版されたこれらの地図は、江戸時代の庶民の間に広く普及し利用されました。

さらに、最晩年には『大日本史地理志』の編纂にも尽力しました。

赤浜村(現茨城県高萩市赤浜)の農家に生まれた赤水は、家業である農業をしながら

少しの時間も惜しんで勉強に勉強を重ね、その学問の功績により水戸6代藩主徳川治保公の

侍講(学問の師)に取り立てられた後は、学問以外でも藩主に善政へのアドバイスなどもしていました。

 

発行年月日:令和元年5月1日  制作発行者:長久保赤水顕彰会

問合せ:長久保赤水顕彰会事務局 〒318-0103 茨城県高萩市大能341 佐川 春久

携帯:090-1846-6849 Eメール:haruhisasagawa@yahoo.co.jp

http://nagakubosekisui.org/  定価1,000円+税

 

・長久保赤水関係資料群の国の重要文化財指定を目指します。

・学ぼう赤水を 教科書に載せて 広げよう世界へ

・「ひよっこ」の次は大河ドラマ「長久保赤水伝」を実現しよう。

 

『改正日本輿地路程全図』凡例…『續長久保赤水書簡集」現代語訳より

花押(かおう)

凡例(はんれい) □国名 ○郡名 国界 ―道路 ……郡界

■城下 〇陣屋 ○名所 △古城古戦場 ▲関所

丌神祠  *佛寺  ●湊

一  この図は、曲(ま)がり尺(しゃく)の一寸(いつすん)(約三㎝)が、道のり十里(じゅうり)(約四十㎞)にあたります。距離(きょり)が幾(いく)里(り)あるかは、前後(ぜんご)左右(さゆう)を見て推測(すいそく)してください。しかし、土地の高(こう)低曲直(ていきょくちょく)によって違いが出てくるので、勘案(かんあん)しなければなりません。越後越(えちごご)えの会津(あいづ)通(どお)りや三国(みくに)通(どお)り、或(ある)いは木曽路(きそじ)や熊野(くまの)路(じ)、四国(しこく)遍路(へんろ)などは十里を八分(2.4㎝)や七分(2.1㎝)に見立て逆(ぎゃく)に伊(い)勢(せ)路(じ)は一寸二分(3.6㎝)十里に見積もっています。つまり、平坦(へいたん)な所は長さが延(の)び、高(こう)低曲折(ていきょくせつ)のある所は短くなっている理解して下さい。

一  大きな道でも山川の形勢(けいせい)により曲直(きょくちょく)があるので、同じにはできません。細かく測(はか)りなさい。たとえば絹糸(きぬいと)を道筋(みちすじ)に沿(そ)って置(お)き、その長さを測れば、松前(まつまえ)から長崎(ながさき)までの里(り)数(すう)はその長さに合います。

一  地名(ちめい)の頭の字の所が、その場所(ばしょ)です。一文字(ひともじ)で三里(さんり・12㎞)になります。だから一里より近い所は、名所(めいしょ)であっても省略(しょうりゃく)します。筆が入れられないからです。

一  川筋(かわすじ)の太(ふと)さや神社(じんじゃ)鳥居(とりい)の大きさは実際(じっさい)とあっていません。細かい所は書分(かきわ)けることが難(むずか)しいのです。

一  土地(とち)の遠近(えんきん)を正確(せいかく)にするために、北極(ほっきょく)星(せい)の高度(こうど)を合(あ)わせます。およそ三十二里離(はな)れれば、天(てん)の一度(いちど)になります。だから極(きょく)星(せい)の高低(こうてい)によって南北(なんぼく)の度数(どすう)(緯度(いど))を知り、東西(とうざい)の度数(どすう)(経度(けいど))を推(お)し量(はか)ってください。太陽(たいよう)は一時(いっとき)(二時間)の間に三十度を過ぎます。東海(とうかい)より西海(さいかい)まで天道(てんどう)十度(じゅうど)違(ちが)います。だから東日本(ひがしにほん)の午(うま)の初刻(しょこく)(午前(ごぜん)十一時頃(ころ))は、長崎辺(あた)りでは、巳(み)の下刻(げこく)(午前十時二十分頃)です。海面(かいめん)に方眼(ほうがん)を引きました。土地(とち)の遠近(えんきん)方位(ほうい)もこれによってわかります。

一  海路(かいろ)の距離(きょり)は、図が小さくて書けません。詳(くわ)しいことを知りたい時は、すでに刊行(かんこう)されている増補(ぞうほ)日本(にほん)汐(せき)路記(ろき)があるので、それを見てください。

常州水戸 長玄(ちょうはる)珠子(たかし)玉(ぎょく)父(ふ) 製(せい)  花押(かおう) 花押(かおう)

 

『改正日本輿地路程全図』序文…『續長久保赤水書簡集」現代語訳より

およそ図は、その大切なること、赤水図(せきすいず)より大切なものはない。しかも、またその難しいこと赤水図より難しいものはない。つまり、その大きいものでは、すなわち、体(たい)国(こく)経(けい)野(や)(都市(とし)と村里(そんり)を区画(くかく)経営(けいえい)すること)、控御(こうぎょ)(人々を治(おさ)め取(と)り締(し)まること)、攻守(こうしゅ)(攻め守ること、軍事(ぐんじ))の政治(せいじ)であり、細かいものでは、すなわち、読書(どくしょ)、考古(こうこ)、探勝(たんしょう)(観光(かんこう))、按蹟(あんせき)(史跡(しせき)を調べる)の学問(がくもん)である。だから、一日として欠(か)かしてはいけないものである。しかし、山の背(はい)向(こう)(離(はな)れることと従(したが)うこと)、水(みず)の迂(う)直(ちょく)(曲がっているか真っ直ぐか。流域(りゅういき)の様子(ようす))、わが儕(ともがら)(仲間)孟浪(もうろう)(おろそか。とりとめがない)にして、躬(みずか)ら(自分(じぶん)で)親しくその地を履(ふ)み(歩き)、なおかつ、数歩(すうほ)の外に回転(かいてん)して、すでに茫然(ぼうぜん)として方位(ほうい)を失うばかりである。いわんや天下(てんか)の大山海(だいさんかい)の邈(はるか)(広々(ひろびろ)として遥(はる)かな様子)なることはいうまでもない。苟(いやしく)も曠懐偉(こうかいい)度(ど)(広々とした立派な心。大きな度量)がなければ、四海(しかい)の量(かさ)を領(りょう)略(りゃく)(意味(いみ)を理解(りかい)すること)することはできない。

しかし、縝(しん)密(みつ)精細(せいさい)(綿密(めんみつ)で非常(ひじょう)に詳(くわ)しい)、豪釐(ごうり)(きわめて少ない)を分析(ぶんせき)する明則(めいそく)がある。よくその梗概(こうがい)(あらまし)を尺幅(せきふく)の上に約(やく)略(りゃく)(表現)して差(さ)なし。 長久保(ながくぼ)玄(はる)珠(たか)、字(あざな)は子(し)玉(ぎょく)、常陸(ひたち)赤(あか)浜(はま)の人、飽学(ほうがく)(学問(がくもん)を充分(じゅうぶん)に修(おさ)めている)にして文(ぶん)に富(と)む。また地理(ちり)を窮(きわ)めることを好(この)む。西は肥(肥前(ひぜん…長崎(ながさき))から東は奥(奥州(おうしゅう))に至(いた)り、自分の足で歩きその地に渉(わた)った(水を越えて行った)。居(きょ)常(じょう)(常に)図を歩障(ほしょう)(幕(まく)を張って堺すること。またその物)に貼(は)り、これを座側(ざそく)に置(お)く。およそ雲遊(うんゆう)僧人(そうじん)(行脚(あんぎゃ)僧(そう))、客商(きゃくしょう)行(こう)旅(りょ)の苟(いやしく)もその門に抵(いた)る(至る)者があれば、必ず延(ひ)くに(客を引き入れること)飲食(いんしょく)を以(もっ)てし(もてなし)、ともに障(しょう)前(ぜん)に座(ざ)し、客人(きゃくじん)の郷里(きょうり)及び客人の歴(れき)する(経(へ)回(めぐ)る)所の山川(さんせん)、城邑(じょうゆう)(都会(とかい))、道里(どうり)、険(けん)夷(い)(険(けわ)しさと平らかと)を指問(しもん)し、その或(ある)いは装(そう)して図記(ずき)をもっている者には、必ずこれら図記(ずき)を出させて、これによってすでに親しく観(み)る所、及び載(さい)籍(せき)(書物のこと)に記する所を証(あか)(検証(けんしょう))す。参伍(さんご)考究(こうきゅう)(三々(さんさん)五々(ごご)種々(しゅじゅ)研究(けんきゅう)を深める)二十余年を積(つ)み、以(もっ)て此(この)図(ず)を成(な)す(完成(かんせい)させた)。余(よ)(私は)かつて、余の熟(くわ)しき(良く知っている)地界(ちかい)の所を以(もっ)って試叩(しこう)(試(ため)しに尋(たず)ねてみた)した。子(し)玉(ぎょく)(赤水(せきすい))為にその迂(う)直(ちょく)背(はい)向(こう)、険(けん)易(い)、沃瘠(よくせき)と風俗(ふうぞく)の淳漓(じゅんり)(あついとうすいと。淳(じゅん)厚(こう)と軽薄(けいはく)と)、舟車(しゅうしゃ)(船と車。転じて水陸(すいりく)の交(こう)通(つう)機関(きかん))の通(つう)塞(さい)(航行(こうこう)の便(べん)不便(ふべん))を説(と)くや、歴々(れきれき)と席上(せきじょう)に指画(しかく)(指で描(えが)いて懇(ねんご)ろに示(しめ)し教える)して、皆その委曲(いきょく)(詳しく細やか)を尽(つく)して豪釐(ごうり)も繆(あやま)らなかった。余(よ)、因(よ)って益々(ますます)その他も信じ、かりそめにしなかった。

子(し)玉(ぎょく)、長(たけ)六尺(ろくしゃく)に満たない眇(しょう)然(ぜん)(小さい様)たる小丈夫(しょうじょうふ)、すでにしてその胸中(きょうちゅう)に蔵(ぞう)するところ此のごとし。また畏(おそ)るべきかな。

安永(あんえい)乙未(きのとひつじ)三月阿波(あわの)国(くに)儒者(じゅしゃ)讃岐(さぬき)柴邦彦撰(しばくにひこせん)  花押(かおう) 花押(かおう)   (安永四年…一七七五年、柴野栗山(しばのりつざん)撰)

 

『改正日本輿地路程全図』汐路…『續長久保赤水書簡集」現代語訳より

海の潮(しお)は大地(だいち)の呼吸(こきゅう)である。月の満(み)ち引(ひ)きに随(したが)い、早朝(そうちょう)には潮(しお)という。晩(ばん)には汐(しお)という。しかし、その干満(かんまん)は土(と)地(ち)により異(こと)なっている。時刻(じこく)の遅速(ちそく)に随(したが)って昼夜(ちゅうや)の二潮(しお)がある。或(ある)いは、一潮、三潮、四潮、及び七潮、八潮もある。また海辺(うみべ)に満干(まんかん)が無(な)い所もある。武州(ぶしゅう)江戸(えど)から紀(き)州(しゅう)播州(ばんしゅう)までに、月の満ち欠け、出入(でいり)で大よそのことがわかる。左のとおりである。

○紀伊(きい)の満潮(まんちょう)は、播磨(はりま)の干潮(かんちょう)である。播磨から備後(びんご)までも同じである。備後から長門(ながと)に至(いた)る紀伊に同じである。長門より下(さが)っては、播磨に同じである。紀伊熊野(くまの)浦(うら)から下って肥前(ひぜん)に至るまで紀伊に同じである。

○筑紫(つくし)鐘(かね)岬(みさき)から備中(びっちゅう)白石(しらいし)に至るまで、七十五里。潮(しお)入り来る。筑紫から下関(しものせき)に入り来る。上関(かみのせき)に至り半ば白石に上る。熊野浦から入り来る潮、七十五里。備中白石に至り、筑紫の潮と相合い之を止む。又両方(りょうほう)各七十五里、相引いて分る。

○明石(あかし)の潮。大坂(おおさか)より遅れる事半時(はんとき)ばかり。備前の潮、播磨に遅れる事二時となる。備中の潮、備前に遅れる事一時となる。白石の潮、大坂に遅れる事三時となる。

○北国(きたぐに)は潮の満干(まんかん)、少しばかりある。時(じ)候(こう)に因(よ)りて五日、七日続けて一方に引く。是(これ)を片(かた)潮(しお)と謂(い)う。土地の高下に随(したが)い、同じでない事かくの如(ごと)し。猶(なお)、海辺(うみべ)の老者(ろうしゃ)に推(すい)尋(じん)して、明察(めいさつ)を加えるべきである。   東都(とうと)榊原(さかきばら)隠士(いんし)  考(こう)鐙(しょう)