東京新聞連載「日本図の変遷〜赤水から伊能へ〜」 ◆第14回 伊能忠敬の蝦夷地測量

東京新聞連載『日本図の変遷〜赤水から伊能へ〜』
◆第14回「伊能忠敬の蝦夷地測量」(執筆・平井松午氏/徳島大名誉教授)2023.1.24掲載
寛政改暦(1798年)後も、高橋至時(やすとき)は、改暦精度を上げるためには地球の正確な大きさを知る必要があると考え、幕府に江戸から蝦夷地までの測量を願い出た。(中略)測量実務には「元百姓當時浪人」の伊能忠敬があたった。(平井松午氏原稿より)
 長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(赤水図)には蝦夷地全貌が描かれていません。長く松前藩の支配地であったことにも関係するのでしょうか。今回の寄稿の中には興味深い内容が書かれています。
【私からの補足説明】
 伊能忠敬の本来の目的は地図製作ではなく、地球の大きさを知るという壮大な目的でしたが、表向きは地図製作でした。
 自分の歩幅を基準に、歩数を10歩、20歩…と数えて距離を導き出し、長い道のりを歩いて測量しています。
やがて、小型の箱車「量程車」という道具を測量に活用。歯車の回転数で距離がわかるもので、城下町など起伏が少ない場所で活用されました。
 伊能忠敬が導き出した緯度一度の距離は、28.2里(一里=3.93km)でした。
(参考:佐久間達夫『伊能忠敬測量日記別巻』大空社出版)