東京新聞連載『日本図の変遷〜赤水から伊能へ〜』
🔷第19回「大日本沿海輿地全図」の完成(執筆:平井松午氏/徳島大名誉教授)2023年2月28日(火)掲載
『伊能忠敬の没後、高橋景保の下役や忠敬の弟子たちが中心となって、最終版伊能図となる「大日本沿海輿地図 」を完成させ、1821(文政4)年7月10日に、景保と忠敬の孫忠誨(ただのり)によって幕府に上呈された。忠敬の死が公表されたのは、その年の9月である。』(中略)
『この幕府上呈本は73(明治4)年の皇城火災で焼失し、そのため明治政府が買い上げた伊能家副本も1923(大正12)年の関東大震災で失われた。唯一遺されのは地図三組と一緒に上呈された測量記録「輿地実測録」十四巻(国立公文書館蔵)だけである。』(平井松午氏寄稿文より)
◇私からの補足◇
伊能忠敬が諸州を実測して周り、生涯を賭して製作した実測図ですが、最終的な完成を待たずに亡くなりました。上呈後の貴重な地図資料は火災や災害により多くを失いました。
長久保赤水に関する資料群693点も、遺族や関係者、収集された方々が戦禍や災害・火災等の幾多の困難を乗り越え、現代まで大切に保管し、後世に伝える大役を果たしてくださったことに敬意を払います。
赤水没年1801年8月3日、忠敬らの第2次測量隊が赤浜を通過。『測量日記』に「赤浜村、長赤水の出し村なり」と記し、敬意を表しています。(出典:佐久間達夫『測量日記3』120頁文化7年5月7日、128頁文化7年6月18日)