東京新聞連載「日本図の変遷〜赤水から伊能へ〜」
🔷第23回(最終回)「明治期地図帳に掲載された日本図」 執筆:小野寺淳氏(放送大学茨城研修センター所長)2023年3月28日(火)掲載。
長久保赤水没後(1801年)、文政年間~明治期の水戸地図学を支えたのは酒井家でした。酒井喜煕は横山大観の祖父で徳川斉昭の御用絵師をつとめ、「皇国惣海岸図」を編纂し献上しています。民間地図製作技術や官製地図製作者の子弟関係と技術の継承など注目してご高覧ください。
『旧水戸藩士・酒井喜煕(よしひろ)の息子たちはいずれも地図製作者への道を歩むこととなる。』(中略)
『五男酒井喜員は1870(明治3)年に「校正陸奥分図三州全図」を作製し、水戸の書肆(しょし:出版業者)須原屋安次郎から出版した。この跋文(ばつぶん:あとがき)には、伊能図の曲尺(かねじゃく:長さの単位)六分を一里(中図)として製図したと記されている。早くも伊能図が活用されており、73年末ごろから陸軍参謀本部で測量が始まるなど、近代地図製作へと移行する。
ところが81年、参謀局地図課木村信卿(のぶあき)課長らが、清国の黄 遵憲(こうじゅんけん)に地図を売り渡したとする、後に明治のシーボルト事件と称された黄遵憲事件が勃発する。』(中略)
『文部省の国定教科書検定制度が施行される以前の教科書用地図帳は酒井兄弟、すなわち横山大観の父と伯父が深く関わっていたのである。』(小野寺淳氏寄稿より)
【補足】
❇︎五男酒井喜員(捨彦)は水戸藩士で横山大観の実父。
❇︎黄遵憲は旧駐日中国大使(外交官)、清朝末期の詩人。
🌸令和4年10月4日から開始した連載「日本図の変遷~赤水から伊能へ~」をご覧いただきありがとうございました。