赤水銅像
ヨーロッパを旅して目につくのは、その土地が生んだ世界的人物の銅像である。文豪・科学者・芸術家……など。私たちの高萩市にもこれに比肩すべき人物はいる。長久保赤水、松村任三である。しかし、二人とも伊能忠敬、牧野富太郎の陰にかくれて、世界はおろか、日本国内でも知る人は皆無に等しい。まちに親が子に指差せる銅像も建っていない。ところが近年、東京大学大学院馬場章教授(当時)の研究調査により、日本国内よりも海外で高く評価されていることが判明した。しかも伊能忠敬に先駆け上回る業績を果してきたことで、俄然脚光を浴びてきたのである。それが2011年3月の震度6強の東日本大震災で目覚めたのか、その翌年4月1日、赤水銅像建立実行委員会(会長皆川敏夫氏)が発足した。
折も折、憂慮する声も多少はあったが、逆境から立ち上がった赤水を、今次災害復興のシンボルとして行動を起こしていった。長久保赤水顕彰会が母体となり、市内外のご支援を頂き超スピードで完成、2012年の11月3日(文化の日)に完成披露となった。銅像制作者の日本芸術院会員・能島征二氏は、「芸術の表現は感動から生れる。市民・県民の希望のシンボルとして高萩駅前に建立設置、敬意と感謝を表します」と述べた。
誕生の地
赤水は常陸国多賀郡大字赤浜村に生れた。水戸藩松岡領の海沿いで、当時の一級国道「奥州道」が南北に通っていた。「陸前浜街道」の呼称は「明治五年四月二十九日から同十八年まで」(『地図史通論』長久保光明著)だそうである。現在はこの道の西側を国道やJR鉄道、又常磐高速道も走っている。江戸時代は奥州道一本だけだったので結構賑わっていたことだろう。街道筋といっても赤浜の宿は、高々三十軒ほどの集落。南、仲、下、金場の町内に分かれ赤水誕生地の屋敷は仲町で道路西側。湧水池もあり、北西の風を避ける背戸山を背負っている。その昔は裏木戸があり、夕方になるとキリキリ、キリキリっと戸締りの音が聞こえたという。代々庄屋をしていた。
「遠妻し 高にありせば 知らずとも手綱ノ浜の 尋ね来なまし」(万葉集) *手綱ノ浜は赤浜海岸。日本第一級の砂浜である。尚、赤水7歳の時、一泊したお侍さんに『大学』の講義をして褒められたとか、お盆に砂を敷き、字を習ったというエピソードはこの頃の事だろう。
赤水の墓
赤水墓地は赤浜の北原松林内の砂上にある。父母たちは当初、赤浜宿南の松塚山の先塋に埋葬したが、分家後、墓までの距離がやゝ遠ざかった事もあり、実母の六十周忌を機に移転改葬した。
赤水墓石は西を向き、南隣に父、実母、継母と並び、実母の碑文は赤水自身が、継母は名越南渓先生にお願いして書き刻まれている。赤水の墓碑文は、第6代水戸藩主の弟で宍戸藩主松平賴救の撰文と書。「寛政十一年五月八日 従五位下 源賴救」とあるから、赤水の没する2年前、数え83歳の時書いて頂いたものである。
正面には、「水戸前講読官赤水長久保翁碑」と達筆な字で書かれている。側面三方には漢文でびっしり書かれている。読み下し文。
「翁 名は玄珠字は子玉 赤水と号し源五兵衛と称す 其の先 大友氏(九州大名)自り分かる 駿河(静岡県駿東郡長泉町)長久保に食邑す 氏に因れり ……」「隴畝帯経 寸陰是惜 飛耳長目 伊人所適(ろうほけいをたいし すんいんこれをおしむ ひじちょうもく そのひとのかなうところ)」23歳の吉田松陰も墓参している。