東京新聞連載『日本図の変遷~赤水から伊能へ』 第5回「ベトナム漂流民引き取りに長崎へ」執筆・小野寺淳氏/2022年11月8日掲載

東京新聞連載『日本図の変遷~赤水から伊能へ』 第5回「ベトナム漂流民引き取りに長崎へ」執筆・小野寺淳氏(放送大茨城学習センター所長・茨城大名誉教授)/2022年11月8日(火)掲載

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長久保赤水が後に著した『長崎行役日記』や『安南国漂流物語』によると、時代は江戸時代、明和2年(1765) 磯原村(北茨城市)の乗組員6名が小船「姫宮丸」で大北川河口から出港し、銚子浦へ廻米620俵(約300石)を運搬した帰途、嵐に巻き込まれ遭難。生死をかけた43日間の漂流の末、安南国(ベトナム)に漂着。生存者は4名でした。同じ頃、「姫宮丸」と同じように嵐に遭難した「住吉丸」の生存者3名も安南国に漂着していました。約2年2か月ぶりに中国船で長崎に生還した漂流民は、取り調べ後、長崎鎮守府から直ちに江戸幕府へ報じられ、一報は水戸藩へと届きます。

長久保赤水は庄屋代理として水戸藩の役人と共に21名の一行に加わり、漂流民の引き取りに長崎へ向かいました。その後の地図製作に大きな影響を与えた「長崎留学」でした。