『安南漂流記 (明和二年戌) 長久保赤水著 全』

『安南漂流記 (明和二年戌) 長久保赤水著 全』
 著者の長久保赤水 (1717-1801) は、江戸時代中期の儒学者にして、地理学者であり、第六代水戸藩主(徳川治保)の侍講侍読を務めた人物である。
*赤水は現在の高萩市出身/2020年9月30日 長久保赤水関係資料693点が国の重要文化財指定。
「茨城県立図書館」グローバルwebアイコンでは、同館ボランティア郷土資料翻訳班が解読した『安南漂流記』の原文と翻刻文、PDF版などを読むことができます。
【備考】*冊子化したものを県立図書館で借りることが出来ます。
◆本書『安南漂流記 (明和二年戌) 長久保赤水著 全』は、著者没後に編纂されたもので、本編となる赤水著の「安南漂流記」に次の三編、即ち、「漂民御覧之記」、「露西亜漂流記」及び「露西亜渡来記」を加えて構成されている。
 本漂流記には、乗組員の遭難、漂流及び送還の顛末並びに現地での経験、見聞等が記される。
 加えられた三編は、何れも露西亜漂流関連の資料であるが、中でも、通商を求める露西亜使節の渡来記を含めていることは、当時の水戸藩内の海防意識を反映しているものであろう。(茨城県立図書館グローバルwebアイコンより抜粋)
【長久保赤水顕彰会】(Facebook担当)より
◎『安南漂流記』について概要解説!
明和二年(1765)11月5日、水戸藩領内、磯原村の「姫宮丸」(船の規模:十二反帆)/船頭:左兵太以下6名の水主(船乗り)は、下総国銚子湊で、*廻米等を荷揚げ後、帰途についたが、銚子沖で強風にあい遭難、巳の風(偏西風)に流され、 約43日の漂流後、安南国(現ベトナム)にたどり着きました。
 漂着の翌年、2名が疫病により死亡(現地で弔い)。役所の紹介で新たに奥州小名浜からの同様の漂流民3名が加わります。
*廻米(かいまい)/江戸時代に幕府の各米蔵に搬送される幕領の年貢米,諸藩の蔵米,商人により運ばれる納屋米など。
 ▶︎漂流民たちは、現地の役人に帰国の働きかけを行い、便船手配を頼んだ外国人に金銭を騙されたりしながらも、現地の日雇い作業により対価を得て、自分たちの食事 を賄っていました。
 ▶︎滞在約一年半後、彼等は、親身な南京人「トンダイグンシ」の支援を受け、安南からの 便船の南京船(中国船)で、27日の航海を経て、明和四年(1767)7月、長崎に帰還しました。
 ▶︎長久保赤水は、明和四年、水戸藩から命ぜられ、磯原村の庄屋代理としと水戸藩吏一行と共に、漂流民四名の引取りのため、長崎(出島)に赴いています。
 ▶︎その帰路、天候のため停留した船内で、赤水は漂流民から漂流の顛末や安南国(現ベトナム)の衣食住、風習、農作、産物、動植物、通貨、言語など見聞や実生活体験について聞き取りを行い、それを記述しています。
 ▶︎漂流中の顛末や、要した日数と共に具体的で明確なのは、船頭:左平太が克明に記録をしていたためと言われます。
 ▶︎赤水は、この長崎行きの紀行文を『長崎行役日記』として残しています。漂流民引取りの全容を記した報告書として克明に記録しています。
◉当時の日本は鎖国の時代です。漂流民を母国へ送還するシステムがあることにも驚きます。
◉外洋船のような甲板がなく海上の嵐には非常に弱い、沿岸部の運搬を担う弁才船(和舟)が帆もなく不完全な状態で、水も食糧も尽きた頃、安南国中部マイニチハマに漂着したこと自体が奇跡です。役所から紹介された、奥州小名浜の漂流民3名も一緒に帰還しています。