鎖国下 海渡った日本地図
◇多彩なルートを追跡、各国で複製・翻訳された理由探る◇ 小林茂(大阪大学名誉教授) / 日本経済新聞 2024年(令和6年)5月20日(月曜日)掲載
▼以下記事から抜粋▼
(中略)鎖国下に海を渡り、複製・翻訳された日本図は少なからずあった。地理学を専門とする私はそれらに関心を持ち続けてきた。
(中略)地理学者の長久保赤水が作製した「改正日本興地路全図」もまた海外へと運ばれた。完成したのは1779年。
(中略)例えば1792年、漂流民の大黒屋光太夫を日本へ送り届けたロシアのラクスマンは、対応に当たった松前藩士・加藤肩吾(けんご)から、ロシア地図と赤水図を交換する形で受け取っている。加藤は97年に北海道に来航した英国の探検家ブロートンにも赤水図を渡した。
ロシアでの地図翻訳に当たったのは日本人流民だった。伊勢出身の新蔵と石巻出身の善六が、1809年に赤水図の地名を読み解いている。ただ、難読地名が多く苦労が絶えなかったようだ。
このころには、欧州船が日本近海で測量を進めたことで、列島の形が明らかになっていく。なかでもロシアの探検家クルーゼンシュテルンは、かつてラクスマンが受け取った赤水図を軸に、欧州船の航海記録を集成して日本海図を作製した。
(中略)かつてテイツィングが長崎通詞から聞いた赤水図の地名の読みを改訂、自筆図を作ったのだ。それを活用した「日本帝国図」は、その後広く活用された。
(中略)欧州の地図製作者たちが赤水図に注目したのには理由がある。東西に通る緯線のほか、経線を思わせる南北線が記入されているのだ。特に緯線は、クルーゼンシュテルンの海図作製の大きな手がかりになった。
*詳細は掲載(写)記事をご高覧ください。/長久保赤水顕彰会